家庭教育支援協会
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違いについて考えられる子どもに育てる家庭教育

家庭教育や子どもの発達に興味を持ち始めてから多くの月日が流れ、自分自身も親となり、子育てをしながらつくづく実感していることがいくつかある。

 

その一つは、巷やインターネット上には本当に多種多様の子育て情報が錯綜的に存在ししているということである。特にネット上の書き込みや、企業の作る情報サイト等は感覚的な経験知を元に書かれていたり、自社の製品に有利なように誘導するような情報があったりと、価値観が固まっていなくて藁をもすがる思いで情報を探しに入った親たちに対しては正に迷宮入りの招待状の様なものではないだろうかと思わされる。

 

だからこそ親が考えを整理して、まず自分の子育てに重要視したい軸を定めてから様々な情報を参考にしていこうと思うのであるが、子どもに基本を教えていこうとすると、その場合の基本とは何かという疑問も俄かに沸いてくる。

 

特に、様々な考え方や文化、人種が入り混じるような環境にいると顕著に現れてくる疑問である。またそれは、文化の違いによる基本的生活習慣や礼儀作法の違いをどのように子どもに教えていくかという課題にもなる。

 

一定の文化圏の中で他の文化との違いを学ぶ時は、学校授業のように学ぶことができる。しかし、様々な文化が寄り集まる環境にいたり、相互の文化に深い関連があったりする場合、子どもは、どの尺度で捉えたら良いのか自信が持てずに混乱の連続になるか、曖昧に事をやり過ごしてその場に合わせていくことになる可能性が高くなるだろう。

 

私の様に海外で子育てをする者にとっては、親自身も今一度考え直さなければならない価値観構築の節目の様なものが到来するのである。これが最近、私がいろいろ実感することのもう一つである。

 

基本的なことをしつけようと思って挨拶の習慣について考えてみても、例えば、ここ韓国と日本のそれは同じように見えても挨拶を重要視するタイミングや意味が若干異なっている場合がある。

また、列や並ぶ順序を守ろうと言っても“お年寄りは優先”という慣例から、割り込みされても若者は文句を言いづらい暗黙の了解があったりと一辺倒の考え方では理解ができない事がある。

 

前者であれば、まず「こんにちは」とは「アンニョンハセヨ」だと訳されるが、実際は同じく用いれる時もあれば、そうでない時もある。日本では朝であれば、起きて家の中で家族に会った時に「お早うございます」等と挨拶するでしょうが、そういった場合に韓国では「アンニョンハセヨ」よりも、(目上の人に言うのであれば)「チャル チュムショッソヨ?」(ゆっくりお休みになりましたか)等と声を掛けたりする方が馴染む。この時に「アンニョンハセヨ」を使うと若干距離感が生まれるとでも言ったらいいだろうか。もちろん、言語を習得させる際にはただ置き換えた訳を教えたりはしないであろう。しかし、その違いをただ感覚的に教えるのではなく、子どもに分かりやすく背景を説明して理解を深めることが必要になってくるであろう。

 

また別の例もあげてみる。韓国でご飯を食べる時は、基本的には器を手に持って食べない。器を持って食べるというのは、身分の低い者が肩身狭そうに食べていた雰囲気になるのでという理由がある。また、片膝を立てて食べるのも本来の正式な姿勢である。これは特に女性が韓服を着たときに綺麗に広がり、優雅に見える姿勢だったところからきているが、この両方を日本でやると非常に行儀悪く躾のなっていない典型例の様になってしまう。

 

例を挙げればきりがないが、片方では“良いこと”“こうであるべきこと”が、もう片方では“悪いこと”“そうあってはならないこと”となるのである。このように基本的な生活習慣や社会道徳を教える場合にも、根ざした文化によって違うということを上手く教えていかなければならなくなってくるのだ。

 

周知のとおり“正しいこと”とは文化や環境の影響を大いに受け、見方によっても変化するものである。大人でもマイケル・サンデル著「これからの正義の話をしよう」が流行ったように難しくナイーヴな課題なのである。

特に社会のグローバル化が進んでいく中で、子どもにどういった視点を身につけさせ、違いを知り、考える能力や受け入れる能力を身につけさせるかはとても重要なのである。

 

変化の速度が速く、多様な価値観を持つ人間がコミュニティの要素となる場合には、その力を身につけさせること自体が家庭教育に強く求められると言っても過言ではないかもしれない。

 

「こうすべきだ」と教えれば、間違えれば「そうでないものは間違っている」という図式になりかねない。「我が家ではこのようにするのが良いと考えているの」とか「場所によって理由があってこの方法を選んでいるの」など多少難しくても理由や背景を伝えながら教えていく必要が出てくるのではないだろうか。別のところに行って違う習慣に出会ったときには、なぜ違うのか、その場合はどちらを選ぶのが良いのか等を共に考えながら選んでいく訓練をしていかなければならない。

要するに、家庭にてそのような会話をしながら思考の訓練していくことが子どもにとって大きな助けになるのではないだろうかと思う訳である。

 

また、「違い」と拒否感を結びつけて排除しようとする習慣を身に着けてしまわないように「違い」はなぜ起こるのか、「違い」を生むのは何なのか、そこに葛藤が生じるならばどうすれば調整する道が見出せるのかを共に考える雰囲気を家庭内に作っていく必要があるであろう。そのように考える力をつけられる様に手助けをしていくことが、これからの社会で生き抜いていく力を養うのに、実はとても重要なのではないだろうかと感じる今日この頃である。

2016928

韓国在住 主婦

藤井 美幸