家庭教育支援協会
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大切にしてもらった!という記憶を作ろう!

 何気ない瞬間にふと、幼い頃に色々な人たちから可愛がられたな、という記憶が甦る。

そして、当時を思い出しては、幸せを感じると伸びる神経細胞、スピンドルニューロン(*26日のコラム「幸福感を持続させるワザ」参照)を増やし、「幸せホルモン」を脳内に出しまくっている私である。

 

小学生のころ、「わんわんババ」、「青帽のオッチャン」「蜜柑のおじさん」「旗振りのおばさん」「畑のじいちゃん」「ビニールハウスのおばちゃん」によく可愛がってもらった。

本名を知っているのは、わんわんババだけだけれど、お互いに名前などは関係なく、こうした近所のおじさん、おばさんたちと交流していた。

 

きっかけは、毎日の登下校での挨拶。ただ、おはようございます、さようなら、だけだったのが、作業をしているおじさん、おばさんたちに「蜜柑、おいしそう」だの「それは、なんの葉っぱですか?」といった質問をしたのが始まりで、そのうち、青帽のオッチャンは、竹トンボの作り方を教えてくれたり、蜜柑のおじさんは、家に蜜柑を持ってきてくれるようになったり、旗振りのおばさんは、蓮華の花や、シロツメグサで冠の作り方を教えてくれた。

畑のじいちゃんは、秋になるとサツマイモ堀りを私に手伝わせ、後日、報酬として、畑の一角で焼き芋焼いてくれた。もくもくとした白煙が目に染みたのをまるで昨日のことのように思い出せる。ビニールハウスのおばちゃんは、薔薇作りをしているのだが、曲がって市場に出せない規格外の薔薇を大量に我が家へ持ってきてくれた。棘の処理が大変で、おばちゃんに棘の取り方のコツを教えてもらったのを覚えている。

 

私の母は、そのたびに、びっくりしていた。当然だと思う。母とは全く面識のない人たちが、自分の娘のことを知っていて、良く言ってくれ、しかも蜜柑だの薔薇だのを持ってきて下さるのだから。「お宅の娘さんは、いい子だね」「はきはきしてるね」「よーく手伝ってくれて助かるよ」「話が楽しいよ」「この前、泣いてたけど、どうだね?」。

後に、母は、「ご近所さんが、皆あなたのことを見ていてくれる、と安心していたわ」と話してくれた。

 

当時、両親以外に、幼い私を気にかけてくれ、大切にして下さった人たちが大勢いたんだな、としみじみ思う。そして、大人になった私には、「大切にして下さった人たちの気持ちの欠片」がたくさん入っている。そんな私は幸せだな、と感じる。このたくさんの欠片がある限り、自分は自分として大丈夫なんだ、という自信があるのだ。何のどんな自信なのかさっぱりわからないけれど、これは、心理学上では、「自己肯定感」と呼んだり、「自尊感情」と呼んだりもする。

だからこそ思う。子供には、大切にしてもらった、という思いをたくさん記憶させよう。

それはもちろん、親であり、ご近所さんであり、その他大勢の周りの大人たちからのものだ。私も一人のご近所さんとして、周りの子供たちと交流を持っていこうと思っている。おせっかいおばさん、と言われようとも。

 

2012年528

家庭教育アドバイザー

家庭教育支援協会 理事 兼 静岡支部長

八木由紀

アメブロ「幸せを引き寄せる家庭教育」http://ameblo.jp/kateikyouiku/


スーパーマーケットでの出来事

 

こんにちは。家庭教育アドバイザーの木村孝子です。

子育て中のお母さま、お父さま、毎日いかがお過ごしでしょうか。

今回お伝えしたいのは、買い物に行ったスーパーマーケットでの出来事について、です。

こんな光景を目にしたことが、皆さんにもあるのではないでしょうか。

泣き叫ぶ子どもを、ヒステリックに怒鳴りつける母親・・・

 

ある日の夕方、普段はあまり行かないスーパーマーケットに行った時の事です。

安さに定評があるそのスーパーで、枝豆とキュウリをカゴに入れ奥の売り場に進もうとしたその時、女性の苛立った様子の怒鳴り声と、直後の幼い女の子の泣き声に、少しだけ驚いてその方向を振り返ると、入口近くで34歳の女の子がひきつるように泣いていました。目線を手前に移すと、その女の子のお姉ちゃんらしい小学1年生くらいの子どもと年長さんぐらいの男の子がいて、40歳前後の美しい母親と一緒でした。

母親を先頭に、お姉ちゃんとお兄ちゃんが私の横を通り過ぎましたが、泣いている女の子はその場に立ったまま。振り返った私は、何かを訴えるような表情をしている女の子に少し困った顔で微笑みました。しゃくりあげていた女の子は二、三歩進んで母親の姿を見つけると大きな声でまた泣き出しました。しかも今度は「助けてください!」と繰り返し叫んだのです。美しい母親は仁王立ちになり「そんなこと言ったら、お母さんが警察に連れて行かれちゃうのよ!」と女の子に向かって少しきつく言いました。それでも女の子はさらに「助けてください!助けてください!助けてください!」と連呼したので、美しい母親は目を吊り上げ金切り声をあげて怒鳴りつけると女の子を置き去りにして店の奥へ移動してしまいました。お姉ちゃんとお兄ちゃんはぴたりと体を寄せ合い、美しい母親の後を追います。その表情は妙に落ち着いて、母親の怒鳴り声にも妹の泣きながらの訴えにも関心がないように見えました。

生来おせっかいおばさんの私は、女の子に「どうしたの?」と声をかけたいのを懸命にこらえました。ここで女の子に声をかけては、美しい母親に恥をかかせる事にもなり兼ねないし、そうなってしまっては女の子は更に叱られる可能性が大きい・・・私のそばにいて、この光景を一緒に見ていた年配の女性が私の方を向いて苦笑いしました。きっと想いは一緒なのだろうと想像し、私も微笑み返しです。

さて、皆さんならどうしますか?

 

実は5年ほど前、私が家庭教育学を学び始めて間もないころ、もっと悲惨な光景に遭遇したことがあります。

地元の美味しい串焼き屋さんで食事を済ませ、お店を出ました。時刻は11時少し前。ほろ酔いの夫と私、中学生の息子は話の続きをしながら家に向かって歩き出しました。

向こうから5歳前後の子どもが34人とその子ども達の母親らしき20歳代の女性が34人ガヤガヤとすれ違いました。母親たちは少しお酒が入っている様子でしたが、お父さんらしい人は見当たりません。ちょっと気になって振り返ってみると、一人の女の子が何やら泣いています。泣きながらお母さんにすがっています。お母さんは邪険に女の子を振り払いました。それでも女の子は泣きながらお母さんにすがり付きました。すると、お母さんはその女の子を引きずり倒し馬乗りになって叩きだしたのです。一緒にいるお母さんたちは呆然と立ち尽くし声も出ない様子でした。

「ちょっと待ってて」

と言って、馬乗りになっているお母さんと叩かれている女の子に近づこうとする私に

「やめとけ」

「ほっておけよ」

と制止する夫と息子。

振り切って近づき、声をかけました。

「ママ、大変だね」

できるだけ優しく、囁きかけるように。

すると、叩いていた手を止めお母さんは私を見上げました。女の子は泣き続けています。

次に

「ママは頑張っているよ」

と声をかけました。と同時に女の子をお母さんの下から抱き上げ

「でもねママ、この子はただ ママに抱きしめてほしかっただけなんだよ」

と言ってお母さんの胸に抱かせました。

次の瞬間、お母さんは女の子をぎゅうっと抱きしめ泣き出しました。女の子も泣いています。

母子で泣きじゃくっている姿を呆然と見ていたほかのお母さんたちに

「お友達でしょ?あとは頼みます」と言って、あきれて見ていた夫と息子のそばに戻りました。

 

お母さんだって我慢できないときもある。それは一生懸命頑張っているから。

誰かに分ってもらいたいと思う時もある。本当は一番身近な存在の夫に分ってもらいたいはず。

 

頑張りが空回りしないために、また、相手に理解してもらう方法を学ぶために、家庭教育学はお役にたつはずです。

親子の笑顔と家族の幸せのために、もっともっと家庭教育学が広く知られることを願ってやみません。私もまだまだ学び続けます。

後輩ママたちのために、将来を担う子ども達のために、そして、私自身のために。

2012521

家庭教育支援協会理事

家庭教育アドバイザー

家庭教育師     

木村 孝子


兄弟

新学習指導要領が変わり、今年度から中学校保健体育において武道・ダンスが必修となった。各地でにわかにダンス教室がにぎわっているという。わが子はまだ小学生であるが、次男はヒップホップを習っている。本人が望んだ初めての習い事だ。長男と1学年しか違わないこともあり、それまでついつい二人まとめて同じようにさせることが多かった。

長男は野球好きで、低学年から野球チームに所属している。同性で年の近い次男も、ついつい当然のように同じようにさせてきた。スイミングも二人まとめて入会した。もちろん本人も楽しんで活動している。がある日、兄とは違うことをしてみたいと言い出した。ヒップホップにしたのは偶然もあるのだが、とにかく本人が選んで決めたのである。

その時よりさらに前にも同じようなことはあった。小さい男の子がいる家庭にはミニカーがあふれていることが多い。不思議とみな同じような成長過程をたどり、建機等の働く車を好んだり、踏切で長時間飽きずに電車を眺めたりするなど、まずは乗り物に興味を示す傾向にある。ところが長男はまったくそれがなく、1歳代からヒーローものを好んだ。キャラクターのフィギュアや戦いごっこのグッズを集め続け、次男もそれらに囲まれて育った。特に親である私も疑問を持つことはなかった。

ところが次男が3歳のクリスマスに、話せる語彙が増えてきたこともあり、自分の欲しいものを自ら語りだした。「僕はもっと自動車とかで遊びたい」と。。。私は目からうろこが落ちる思いで、二人をひとまとめに考えてきたことを反省した。次男には次男の人格があり、尊重すべきであるという当たり前のことを忘れていたのだ。

「三歩進んで二歩下がる」という歌の歌詞のような子育ての日々である。何年たってもドッキリ冷や汗もののエピソードが尽きないが、挽回のチャンスには真摯に取り組んでいるつもりだ。今後ますます道が分かれていくであろう兄弟の人生を、私自身も少しずつ成長しながら支えていきたいと思う。

2012514

家庭教育アドバイザー

沖 由香子

 


生きることは比べること

 比べて生きる

私たちは、この世に生を受け、成長し、死んでいきます。しかし、その間、どれだけ比べられて生きているでしょうか? 数えあげるとキリがありません。ひょっとしたら死んだ後も比べられていたりして・・・。比べられるだけでなく、自らも比べながら生きています。オギャーと生まれた時には、男が女か? 体重は? 鼻の高さ? 誰に似てる?・・・

その後は、身長、体重、美貌やスタイル、健康度、成績、学歴、出世、運動能力、職業、収入、金利、資産、年金額、その他。

人間みんな死ぬと分っているのになぜ比べるのでしょうか? 生きるためには比べなくてはいけないのでしょうか? そして、比べるとはどういうことなのでしょうか?

 

分けると分る

比べるとものごとがよく分ります。比較文化論もそうですね。AとBを比較するわけです。区別します。分析し相違を見つけます。分けて考えるとよく分ります。解剖学もそうですね。死体を切り分けてからだの構造や機能を知るわけです。「分る」ということは「分けること、区別すること」といえるようです。

 

差別はあたりまえ

社会学での差別(さべつ)とは意味が異なるようですが、仏教用語に差別(しゃべつ)ということばがあります。差別(しゃべつ)とは、現象世界に存在するものは個々それぞれ独自であり、異なる相をもっているということです。動物にも犬や猫がいるように、違いがあります。一口に犬といってもいろいろな犬種があり、また同じ犬種でも、人懐っこい犬、キャンキャン吠える犬がいるように一様ではありません。異なってあたりまえです。これが等しく平等であるべきだと考えるとしたら、それは無理、無茶、悪平等というものです。

 

正しいことを信じる

異なって当然なことを平等でなければならないとする考えは煩悩でいうところの「疑(ぎ)」です。疑とは正しいことを疑うということです。正しいことを疑い、間違ったことを信じると、苦の原因をつくることになります。

 

四苦八苦

生きることが比べることだとしたら、苦を伴います。比べると欲が生じるからです。他人と比べ、欲に執着しすぎると、うまくいったときは満足もあるでしょうが、そうでないと苦が生じます。自分だけが永遠の命を欲しいと願っても無理です。病気もするし、老いて死ぬのはあたりまえです。愛する人といつかは別れなくてはなりません。嫌いな人とも会うこともあります。求めてがんばっても得られないこともあります。いずれも苦です。四苦八苦です。

 

肯定して生きる

世の中は千差万別。差別があることは当然と考えることが賢明です。最初は分けて考え、分けて理解し、よく分ること。

そして、次に、分けられないものもあることを知ること。分けてはいけないもの、分けては分らないものもあるのです。生き物がそうです。体は解剖しても、心は分けることができません。分けないで、そのままを理解することは大変難しいのですが、生き物の場合は分けないで理解するしかありません。生き物を理解する場合は、すべてのことを肯定して考え、寄り添って生きる姿勢が大切であるように思います。

欲についていえば、ありすぎても苦の原因になりますが、しかし、欲がなくては生きていけません。欲をもつことは自然で大事なことです。ただし、欲をよい方向に導くことが肝要と考えます。生きることは比べること、そして、比べてすべてを肯定することではないでしょうか。
         

2012年5月7日
岩田一夫
日本セラピスト育成協会 会長

http://www2.tbb.t-com.ne.jp/green/

                                                            


自然や人とふれあう、嫌な思いを崩す体験を

 

4月・5月は気候が穏やかになり、気持ちもゆるむのですが、子どもの学校・学年・学級も変わり、子どもの心は不安定になります。5月病という言葉もあります。

先日、中学生がバスの車内でナイフを振り回し、運転手を刺すという事件が報道されていました。その中学生が、そのような状況を引き起こすところまで追い込まれていたことを思うと、そして、家族や学校の方々の驚きと苦悩を思うと、気持ちは重く、沈みます。その中学生は、昨年末、部活で先輩に下手だと言われて悩んでいたこと2月には部をやめたいと先生に相談していたということもあわせて報道されていました。

 

その関連に思いを深めていると、ある新聞の投書欄で見かけた、ある中学生の部活への思いを思い出しました。要約すると、次のようでした。

…中学生になって一年間、部活でがんばってきた。苦しくなったり、悔しい思いをしたりすることが多かった。先生に怒られては、やる気をなくしてしまったことを思い出すと、これからやっていけるかどうか不安になる。しかし、先生は、きっと自分の不完全なところを直そうとしてくれているのだと思い直した。そして、これからも、一つ上のステップを目指してがんばっていきたいと思うようになった。…

 この中学生は、部活にがんばることで、かえって不安な気持ちになりました。でも、その気持ちを崩し、前に進もうとしています。ここには、すばらしい意識改革がありました。

 

部活では、うまくできない自分と対面することになります。がんばっても、がんばっても、目に見える成果が出るとは限りません。だから、練習をするのですが、そこに先生や先輩からの叱咤激励が続くと、自信をなくし、嫌になってしまうこともあるでしょう。人生行路の難所です。そのようなとき、不安を崩し、希望の光を見出すことを望んでも、なかなかそのようには頭も体も動きません。投書の中学生がこの難所を切り拓くことができたのはどうしてでしょう。

 

きっと、以前、小学生のとき、嫌な気持ちを崩した体験があったのではないかと考えてみました。体験があると、悩んだとき、心の整理をするシグナルが出ます。そのような体験として、ある、お母さんと子どものことを思い出しました。

 

小学3年生のK君には、「嫌い」なことがたくさんありました。そうじをすること、漢字の練習をすること、野菜を食べること、そして、早起きをすることが嫌いでした。とくに、早起きをすることが大嫌いでした。

その、どれもが、することはよいことだとはわかるのです。しかし、よいことだとわかってはいても、それを勧められると苦痛に感じるのです。きっと、しなければならないことが目的となっているのでしょう。本来は楽しい生き方ができるためのことなのですが。

 

そこで、お母さんは、ある日の夕方、K君に、次の日の朝、一緒に早起きをして散歩をしようと提案しました。K君は仕方なく、つきあうことにしました。

朝の空気は、よい空気です。気持ちがさわやかになります。お母さんと一緒に歩いていると、ゴミが落ちていました。よい空気の中で、ゴミが落ちていることは違和感があります。お母さんは、明日は袋を持って来てゴミを拾おう、と提案しました。朝のさわやかな空気の中で、落ちているゴミを拾うことはよいことだという気持ちになります。散歩に、よい目当てもできました。

 

翌日、二人は袋を持って散歩に行きました。袋は、ゴミでいっぱいになりました。手もまっ黒になりました。それを見て、お母さんは、明日は火バサミを持って来よう、と言いました。工夫することで、困ったことも楽しいことになります。そのようにして、K君はお母さんと、朝早く起きてゴミを拾うことを続けました。

 

やがて、家のベランダがゴミの袋でいっぱいになりました。それを見たお父さんが、がんばった証拠だ、と言ってくれました。また、ゴミを拾っていると、知らないおじさんが、ごくろうさま、と声をかけてくれました。それらを聞くと、K君はうれしくなりました。

 

そのような日々を過ごしているうちに、K君の心に変化が生まれました。進んでゴミを拾うようになったのです。そして、早起きが、嫌いではなくなっていました。さらには、ほかの嫌いなことにも、少しずつ、自分から取り組めるようになったということです。

(第24回全日本「小さな親切」作文コンクール入選作品による)

 

K君の心を広げてくれた、お母さんでした。自然が作り出す朝のさわやかな空気も、K君をはげましてくれました。お父さんや、知らないおじさんの言葉かけもそうでした。

 

子どもに、よいことを、よいことだからさせようとすると、強要調になってしまいます。それでは、よいことも嫌なことになってしまうのです。しかし、それらをしてみて楽しくなると、嫌なことではなくなります。それは、体験して、初めてわかることです。

 

現代は、生活環境が便利になり、日常生活が整備されています。子どもが手伝いをして親子がかかわりをもつ機会も少なくなりました。そして、おけいこ事、スポーツ、学習塾、勉強、部活等での成果に関心が集まるようになりました。これも時代の流れかもしれません。しかし、そのような環境の中にいると、成果だけに目が行き、人間性を育てることには目が行きません。

 

人には嫌になってしまうこともあります。悩みに落ち込んでしまうこともあります。しかも、がんばるからこそ、悩みも深くなることだってあるのです。しかし、人間は山積した苦悩も崩すことができます。そのことを、先に紹介した投書の中学生が証明してくれています。子どもには、そのような人間性を育てたいです。それには、自然にかかわってより大きな気持ちになる体験や、人に頼りにされてうれしくなる体験を積み重ねることではないかと思います。体験で味わえたよい思いは心に宿り、よいシグナルを発するもととなるでしょう。

 

各家庭で、自然とふれあい、家族や地域の人とふれあって、日々の生活の中で楽しさをつくりだして行くことが、今まで以上に、求められている時代になっているのではないかと思いました。

   2012年4月30日

          八洲学園大学教授  渡邉 達生