家庭教育支援協会
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自然や人とふれあう、嫌な思いを崩す体験を

 

4月・5月は気候が穏やかになり、気持ちもゆるむのですが、子どもの学校・学年・学級も変わり、子どもの心は不安定になります。5月病という言葉もあります。

先日、中学生がバスの車内でナイフを振り回し、運転手を刺すという事件が報道されていました。その中学生が、そのような状況を引き起こすところまで追い込まれていたことを思うと、そして、家族や学校の方々の驚きと苦悩を思うと、気持ちは重く、沈みます。その中学生は、昨年末、部活で先輩に下手だと言われて悩んでいたこと2月には部をやめたいと先生に相談していたということもあわせて報道されていました。

 

その関連に思いを深めていると、ある新聞の投書欄で見かけた、ある中学生の部活への思いを思い出しました。要約すると、次のようでした。

…中学生になって一年間、部活でがんばってきた。苦しくなったり、悔しい思いをしたりすることが多かった。先生に怒られては、やる気をなくしてしまったことを思い出すと、これからやっていけるかどうか不安になる。しかし、先生は、きっと自分の不完全なところを直そうとしてくれているのだと思い直した。そして、これからも、一つ上のステップを目指してがんばっていきたいと思うようになった。…

 この中学生は、部活にがんばることで、かえって不安な気持ちになりました。でも、その気持ちを崩し、前に進もうとしています。ここには、すばらしい意識改革がありました。

 

部活では、うまくできない自分と対面することになります。がんばっても、がんばっても、目に見える成果が出るとは限りません。だから、練習をするのですが、そこに先生や先輩からの叱咤激励が続くと、自信をなくし、嫌になってしまうこともあるでしょう。人生行路の難所です。そのようなとき、不安を崩し、希望の光を見出すことを望んでも、なかなかそのようには頭も体も動きません。投書の中学生がこの難所を切り拓くことができたのはどうしてでしょう。

 

きっと、以前、小学生のとき、嫌な気持ちを崩した体験があったのではないかと考えてみました。体験があると、悩んだとき、心の整理をするシグナルが出ます。そのような体験として、ある、お母さんと子どものことを思い出しました。

 

小学3年生のK君には、「嫌い」なことがたくさんありました。そうじをすること、漢字の練習をすること、野菜を食べること、そして、早起きをすることが嫌いでした。とくに、早起きをすることが大嫌いでした。

その、どれもが、することはよいことだとはわかるのです。しかし、よいことだとわかってはいても、それを勧められると苦痛に感じるのです。きっと、しなければならないことが目的となっているのでしょう。本来は楽しい生き方ができるためのことなのですが。

 

そこで、お母さんは、ある日の夕方、K君に、次の日の朝、一緒に早起きをして散歩をしようと提案しました。K君は仕方なく、つきあうことにしました。

朝の空気は、よい空気です。気持ちがさわやかになります。お母さんと一緒に歩いていると、ゴミが落ちていました。よい空気の中で、ゴミが落ちていることは違和感があります。お母さんは、明日は袋を持って来てゴミを拾おう、と提案しました。朝のさわやかな空気の中で、落ちているゴミを拾うことはよいことだという気持ちになります。散歩に、よい目当てもできました。

 

翌日、二人は袋を持って散歩に行きました。袋は、ゴミでいっぱいになりました。手もまっ黒になりました。それを見て、お母さんは、明日は火バサミを持って来よう、と言いました。工夫することで、困ったことも楽しいことになります。そのようにして、K君はお母さんと、朝早く起きてゴミを拾うことを続けました。

 

やがて、家のベランダがゴミの袋でいっぱいになりました。それを見たお父さんが、がんばった証拠だ、と言ってくれました。また、ゴミを拾っていると、知らないおじさんが、ごくろうさま、と声をかけてくれました。それらを聞くと、K君はうれしくなりました。

 

そのような日々を過ごしているうちに、K君の心に変化が生まれました。進んでゴミを拾うようになったのです。そして、早起きが、嫌いではなくなっていました。さらには、ほかの嫌いなことにも、少しずつ、自分から取り組めるようになったということです。

(第24回全日本「小さな親切」作文コンクール入選作品による)

 

K君の心を広げてくれた、お母さんでした。自然が作り出す朝のさわやかな空気も、K君をはげましてくれました。お父さんや、知らないおじさんの言葉かけもそうでした。

 

子どもに、よいことを、よいことだからさせようとすると、強要調になってしまいます。それでは、よいことも嫌なことになってしまうのです。しかし、それらをしてみて楽しくなると、嫌なことではなくなります。それは、体験して、初めてわかることです。

 

現代は、生活環境が便利になり、日常生活が整備されています。子どもが手伝いをして親子がかかわりをもつ機会も少なくなりました。そして、おけいこ事、スポーツ、学習塾、勉強、部活等での成果に関心が集まるようになりました。これも時代の流れかもしれません。しかし、そのような環境の中にいると、成果だけに目が行き、人間性を育てることには目が行きません。

 

人には嫌になってしまうこともあります。悩みに落ち込んでしまうこともあります。しかも、がんばるからこそ、悩みも深くなることだってあるのです。しかし、人間は山積した苦悩も崩すことができます。そのことを、先に紹介した投書の中学生が証明してくれています。子どもには、そのような人間性を育てたいです。それには、自然にかかわってより大きな気持ちになる体験や、人に頼りにされてうれしくなる体験を積み重ねることではないかと思います。体験で味わえたよい思いは心に宿り、よいシグナルを発するもととなるでしょう。

 

各家庭で、自然とふれあい、家族や地域の人とふれあって、日々の生活の中で楽しさをつくりだして行くことが、今まで以上に、求められている時代になっているのではないかと思いました。

   2012年4月30日

          八洲学園大学教授  渡邉 達生


家庭教育雑感

 我が家の子どもも、今春で小学三年生になりました。長かったようで短かったここまでの道のりですが、これから迎える思春期においては、これまでになかったような苦労がいろいろとあるのだろうな、と想像します。親としての自覚と責任を持って、何とか乗り越えていきたい、と思っています。
 江戸時代、士農工商の身分制度があったころは、身分によってなるべき姿が外側から決められていました。家庭では、生まれながらに定められた社会的身分に適した人間になるように育てていけばよかったわけです。現代社会、価値観は多様化し、自由がある反面、理想的人間像は多様化しています。将来どういった人間になるのが最善なのか、よりよい理想像を求めようとすればするほどわからなくなります。目指すべき人間像が定まらなければ、家庭教育の方法論も定まりません。現代の家庭教育の混迷は、このような構造に起因しているのだと思います。
 「幸せの青い鳥」求めようとすればするほど逃げていきます。結局のところ、追わない事が一番、すなわち、「足るを知る」ということです。今ある状態で良しとする。今ある状態に感謝する心が大切であると感じます。
 武道では「捨てる」ということがしばしば語られます。「己を捨てる」「迷いを捨てる」「欲を捨てる」。「捨てきった」ところに真実が見えてくるのです。
 家庭教育においても、最高の幸せを闇雲に追い求めるのでなく、現状に感謝し、「捨てる」勇気と覚悟を持って取り組むと、何かが見えてくるのかもしれません。
                                     

2012年4月23日
八洲学園大学 大石純子


実家に帰って感じたこと

  この2月に仕事の関係で沖縄の実家に帰ったときに感じたことを記してみようと思う。

実家に帰るたびにそうであるが、自分が生まれ育ったその場所のもつ力によるものであろうか、わずか数十年の時間など無きに等しい時間の遡及が体験され、過去のことが思い起こされる。なにも変わらない家の様子や、村の状況が、自分の数十年の時間を逆戻りさせる。故郷を離れた人が帰省した折に共通して感じることであろう。しかし、数十年の時間はいくつもの変化をもたらしていることは確かである。両親の老いについていえば、帰るたびにその変化に時間の流れの非情さを感じてしまう。

 

子どものころ、父親が四十半ばの齢であった頃の姿や表情、どのような顔をして子ども達に接していたかをまざまざと思い出しつつ、そのころの父親の年齢に現在自分自身があることに、あたかも舞台上の演劇の役回りを一瞬間だけ交代し演じているような感覚を覚えた。親の老いは、確実に自分自身の老いでもあることに気づかされるのだ。帰省するたびに感じさせられる時間の移り変わりのなかでの、なにも変わらないことと、時間の推移が創り出す非情なまでの変化に、自分自身がそれほど長くないであろう時間の経過のあとに父親の現在の年齢に達することを自覚させられる。その自覚を通して、やはり自分も確実に父親のようにさらに老い、そしていつか祖父のように亡くなっていくのだとの事実が実感をともなって体感される。老いた父の姿にそのまま自分を見るわけである。久々の実家への帰省という特殊な時間によってもたらされる感覚である。

 

このような両親の老いを通した自分自身の老いの感覚は、父親としての自分の立場から子どもを見るなかでも抱くものである。子の姿のなかに自分のありし日の姿を見る。子どもは迷惑かもしれないが、ああやはり自分の分身だなと思うことがある。この経験は多くの親がもつものであろう。父もまたいまや四十半ばを過ぎた息子である私の姿に自分の来し方を振り返る瞬間があったであろうし、またいまもあるのだろう。このような体験のなかでみているものは、親や子という関係性のなかにある〈連続性〉である。この〈連続性〉の実感を言葉で表現しつくすのは難しいが、感覚的には、自分のなかに両親の存在を分有しているという感じである。もちろん遺伝や、生体的な連続もその感覚を生みだす要因ではあろうが、いわゆる血のつながりだけに還元できない、なにかしら同質のものが繋がっているという感覚である。いわば〈存在の連続性〉というものが親子の関係のなかに実感させられるのである。

 

実家に帰ったおり、このようなことを感じたり考えたりしたのであるが、このような感覚はさほど特別なものではなく、この〈連続性〉の実感は人間がいつの時代でも経験してきたことだといえるだろうし、だれでも形は様々だが似たようなことを感じているだろう。しかしながら、この連続性についてよくよく考えていくと、この素朴な感覚は我々の自己と他者とのつながりや、現代の家族や社会の在り方についていろいろ考えさせてくれるのである。

たとえば、多くの民族で見いだせる祖先への崇敬の念は「先祖(祖先)崇拝」ということばでしばしば単純化されて理解されがちであるが、上記の人間の〈存在の連続〉というものへの直感に由来するものなのかもしれない。〈存在の連続〉に畏敬の態度をもって向き合うというこの在り方は、自分自身もその存在に連続するものであるがゆえに自己の存在のかけがえのなさというものを肯定することにつながるのだともいえる。

 

祖父母、親、自分、子、孫とつづくこの連続を縦に連なる繋がるものだとすれば、兄弟や親せきは横への広がりとすることができるだろう。家族におけるこの連続を別の言葉で表現すれば「絆」ということになるのだろう。家族の絆とは無条件にその存在のかけがえのなさが共有されている関係ということもできる。人間はこの絆や〈連続性〉のなかで自己を縦軸的な時間と横軸的な世界の広がりの中心にその存在を定位させているのだということができる。本コラム欄の先の平林さんが「家訓」の話で言及した先祖のことをどこまで認識しているかということはこのことと関係しているかもしれない。現代社会ではこの縦軸的なつながりがかなり限定的になってしまっているということがいえるのだろう。

 

ところで、自分が親の存在全体を分有し、自分の子がまた自分の存在を分かち持つというこの〈連続性〉・〈絆〉は血のつながりのなかだけにあるものなのなのか。血のつながらないものとは〈連続〉などなにもない他人ということになるのか。おそらくそうではないだろう。さきに述べた〈存在の連続〉に畏敬の態度をもって向き合うことが自己の存在の肯定につながるという場合の〈連続性〉は家族や親族を超えた人間のつながりという形で多くの伝統的な社会では共有されてきたのだといえよう。この場合、この連続性は共同性と言い換えることもできるのかもしれない。とはいえ、この人間の連続性は、歴史的にいえば血筋・家柄・不可触民など血のつながりのなかに狭小的に理解されて人間と人間を分断し特権意識を生みだしたり、差別したりする自他の境界を設定する根拠になることも少なくなかった。また親と子のこの連続性は、現代社会でも負の面に作用する事例もあることは確かである。たとえば、親の自己実現を子どもに求め、存在の肯定どころか子どもが手段化される場合などがそれである。

 

震災後、「絆」ということがいわれるが、われわれはこの連続性や共同性の重要性を、想像を絶する震災という出来事を契機としてあらためて気づかされたといってよい。人間の絆、すなわち連続性や共同性、無条件にその存在のかけがえのなさが共有される関係が、血のつながりのなかだけに狭小化されないかたちで現代社会のなかで構築されていかなければならない。このような人間と人間のつながりや共同性の構築は、家族や家庭のつながりの中にある関係性がモデルとなるだろう。理念的、抽象的ではなく家庭の人間関係にあるような具体的、身体的、感性的なものこそ重要となるに違いない。悲しみや苦しさや喜びなどがまさに自分のこととして共有される関係性である。

 

実家からの帰りの飛行機のなかでこのようなやや大風呂敷なことを考えながら、3.11以降、もはや戦後ではなく災後であるいわれる現在、自分になにができるのだろうかと問いながら、自分はさほど力になっていないが、家庭教育支援協会の活動はこのような社会の構築にむけた行動のひとつといえるだろうと思った次第である。これまでの活動での各講師の話やレクチャーはどこの家庭にもある問題、いわば痛みを共有し、親と子のつながりについて考えながら共同性を構築していこうとする内容であることにあらためて気づかされた。災後の「絆」の構築に我々の活動が地味ではあっても着実に取り組んでいることを再認識した次第である。このことの意義を自覚して活動していくことは重要である。

2012年4月16日 

家庭教育支援協会

平良 直

 

 


赤沼幸子著『本当は良い子になりたい〜絶望を問題行動で訴えるこどもたちから学ぶ〜』について

 

 今回は、本の紹介です。

 

 昨年(2011年)10月に亡くなった赤沼幸子先生のご遺稿が、今年1月、美しい本になりました。

 

 赤沼先生は、千葉県警で長年にわたり少年補導に従事された後、八洲学園大学教授として家庭教育関係の研究と教育に携わった方です。ご経験をふまえた講義の内容は、多くの学生の心に刻まれ、忘れがたいものとなっているようです。

 

 本のタイトルは、『本当は良い子になりたい〜絶望を問題行動で訴える子どもたちから学ぶ〜』(子どもを育てる101の提言)。

 

 この本は、問題行動でしか自己主張できない青少年の、言葉にならない苦悩の背景を伝えなければならないという、先生がかねてよりお持ちだった強い使命感から、ご闘病生活の中で、文字通り最後の力を振り絞って書き上げられたものです。

 

 全部で101の項目について、ほぼ各1ページの、短めで、たいへん読みやすい、あたたかな文章が連ねられています。それらが、第1章「悩む青少年に」、第2章「子育て中の両親に」、第3章「教師と地域の人々に そして思い出」という、三つの章に括られるという構成になっています。

 

 ほんの一部ですが、内容を紹介しましょう。私は先にこのコラムで「受け入れる」ということを取り上げましたので、それに関連するテーマから。

 

 66番目に「安心感」がテーマに取り上げられ、次のように指摘されています。

 

  子どもが家庭に求めているものは、素朴なものばかり。

  中でも、安心感を一番に求める。

81ページ)  

 

 ここを読んで、家庭に関して重要だと漠然と思っていたことの一つが、確証を得て、しっかりと意識されます。そして、このことを心にとめて読み進むと、たとえば77の「おしゃべりを止めない」に挙げられる具体例に目をとめないではいられません。

 

   「食事のときは、黙ってめしを喰え!」と叱られて、なぐられた子どもたちがいる。

   学校であった出来事を、一緒に食卓を囲む父親や母親やきょうだいに話した時だ。

 

   父親は自分のことで頭がいっぱいなので、考えごとをしていたその時に、子どもの

話が邪魔だったのだ。

 

   どうか、子どものおしゃべりを止めないで、聞いて欲しい。

 

   食事の時の、何気ないおしゃべりや会話が、子どもらの心に安らぎをもたらし、明

 日への希望を与えるのだから。

92ページ)

 

 他にもご紹介したい項目ばかりです。101項目のリストは、本書の制作に尽力された本協会監事の渡邉達生・八洲学園大学教授のブログhttp://blog.study.jp/yguwata/2012/02/101.htmlに掲載されていますので、参照していただければと思います(本の写真を見ることもできます)。

 

 本書はご遺族による自費出版で、書店では購入できませんが、各方面から反響があり、現在、最初の印刷分が残部僅少となっているとのことです。先日、千葉日報でも紹介されたそうです。近く増刷する予定とのことです。

 

 ご購入希望の方は、までメールをくだされば、取り次ぎます。1冊1,500円(送料別)です。代金の一部は、故人の遺志により東日本大震災の被災地に寄付されます。なお、増刷後の発送となりますが、ご了承願います。

                                                                                                                                                                                                                                                                          

2012年4月9日
理事

八洲学園大学教授

石井雅之

 


独りよがりの倫理観

 いつのころからか。一般常識とは違う、社会にあわない倫理観を持った人がふえてきた。 人がどのように思っても関係ない。 好きにしたい。そんな人が多い。

 かつて日本人が諸外国に尊敬されたのは 、日本人の人と人の和を大切にする礼儀正しい振る舞いや、威厳のある態度ではなかったか。それが短い時間になぜ失われたのか。

 先日、友人に呼ばれて出席したセミナーで「家訓」についての話を聞いた。昨年日本青年会議所の議長を務め、その会議体で家訓作りプログラムを開発したとのことだった。講義の際に1枚のシートを渡されて、自分から始まり、父親、母親、祖父、祖母、曽祖父、曽祖母の名前とエピソードを記入するというものだったが、私は祖父、祖母の名前がかけなかった。その時、先祖代々伝えられてきた家訓や掟、人間観、社会観などを私自身が断ち切ってきたことを悟った。

 日本には宗教はないと言われるが、先祖代々伝えたれてきた生き方の教えがあった。しかし、核家族化が進む中で私たちは先祖の教えを断ち切って、様々な情報の中から自分に都合がいいことだけを選んで倫理観や、社会観を構成してしまったのではないだろうか。親から注意された時に「そんなのは古い、今の社会は違う」という一言で人の生き方として変えてはいけないものを変えてきてしまったのかもしれない。

 でも、かつてのような大家族に戻ることはできないだろう。今私たちは改めて普遍的な倫理観を手に入れる必要がある。

 一時期、その役目を宗教が担おうとしていた時期があった。新興宗教は今の時代を生きるための新しい価値観や倫理観を提供しようとしていた。オウム真理教などには高学歴な信者が多いと聞く。彼らは日本人が伝統的な倫理観を失う中で新しい倫理観を築きあげることが必要であり、自分たちがその役をにない、日本を支配する思ったのではないだろうか。倫理観を構築するということは国体を変えるくらいの力を持つことに違いない。

 伝統的な倫理観が失われつつある今、改めて日本が日本らしさを取り戻すための倫理観の再構築が必要だと思う。

 そして、それを伝えて行くことが教育であり、家庭教育の中では父親の仕事なのではないだろうか。


2012年4月2日

理事
平林直人

八洲学園大学 職員
日本家庭教育学会常任理事
経営コンサルタント、小中高を要する学校法人を経て八洲学園大学に勤務