家庭教育支援協会
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道徳教育の基本は家庭にある

 この4月1日から実施される新学習指導要領の「道徳」について、家庭教育の立場から考えてみたい。

 道徳内容の4視点24項目のうち今回とくに加えられた項目は、「社会の秩序と規律を高めるように努める」という秩序遵守の項目である。現代社会の規範意識の低下という現象に対応したものであるが、しかし規範意識の低下は順法精神だけで片づくものではない。溺れた人間を救う、線路に落ちた人間を救う行為は、法律以前の人間の根本感情に支えられている。規範意識の根底には「他者への思いやり」がある。しかしそういう項目は指導要領にはない。

 それから4視点のうちの一つ「自分自身に関すること」の項目をみると、内容としてあげられているのは、「生活習慣を身につける」、「高い目標を目指す」、「自律の精神を重んじる」などで、人ごとのような著しく客観的な記述である。「自分を愛し、尊重する」という自尊の感情については何もふれられていない。規範意識は、他者への尊敬と自分への信頼がなければ生まれないことだ。しかし、家庭で基本的な態度ができていない子どもに対して、学校で道徳を教えることはできないから、この「他者への愛」と「自分への愛」といったことは、本当は家庭教育の中で育まれるべき情操かもしれない。

 精神医学者ボウルビイは、子どもの時期の母親からの愛の体験が、「自愛(自尊)」と「他者への愛」の基礎を作ることを強調した。相互的な倫理性の基礎がこの時期にはじめて築かれるのである。もし母親への愛や人間への愛が芽生えず、他人の気持ちとの通路が遮断される場合、人格性は致命的な傷を負う。だから母親の愛はすべての愛の原型であり、決定的なものだ。

 しかしこういえば、現代では、それは母親を良妻賢母の枠内に閉じこめる身勝手な考え方だ、といわれてしまう風潮にある。母親の愛の強調が女性の矮小化や蔑視とみなされたり、道徳は教育になじむのか、むしろ自然発生的なものだから作為的教育は不要ではないかという意見についても、まだ決着がついていないままである。学校の道徳教育を支えているのは家庭の道徳教育であるが、これは、家庭像の変質の中にあっていま大きな岐路を迎えていると思う。

 いま大切なことは、難しいことだが、家庭における道徳教育の方針を学問的に作っていくことであろう。道徳教育は可能かを問う前に、道徳そのものとは何かということから議論を始めていく必要があるかもしれない。


2012年3月11日
顧問
八洲学園大学教授
水野建雄

 


「迷惑をかけないこと」と「生きること」

 今回は、本当はもっと違うことを題材にしようと考えていましたが、思うところがあり変更しました。

 それは、最近改めて身近で感じたことがあるためです。2012年1月28日に行われた家庭教育支援協会の「ファミリーコミュニケーション運動」に参加して、皆さんのご意見を伺いながら「人に迷惑をかけないこと」と「生きている限り、迷惑をかけずにはいられないこと」について、久しぶりに感慨深くなりました。

 日本人の多くは、恐らく子どもの頃に家族の誰かから「人に迷惑をかけないようにしなさい」と言われたことがあると思います。また言ってもいると思います。少なくとも、このHPを見ていただいている方はきっと、初めて見聞きした、と言う方はいらっしゃらないと思われます。

 そして何かしようと思ったら人に迷惑をかけない範囲で行動するでしょう。子どもの頃から聞かされていることですから、心が健康な人は、大抵罪悪感なしには人に迷惑をかけることはできないと思います。それが子どもでも大人でも、社会で生きていく最低限うまくやっていく条件のひとつです。破ろうと思ったら、大なり小なり抵抗感があるのではないでしょうか。

 私には当然のことで、あえて意識するものではありませんでした。無意識にお任せです。

 しかし、身体でも心でも、どこかしら不具を抱えてしまった人は、「迷惑をかけるなら私なんか死んだ方が良いんだ」と言います。

 家族など周囲の人にしてみたら、どんな姿でも、どんな苦労をかけられても、生きていてくれるだけでありがたいと思うものです。そして、直接的・間接的にそのように伝えもするでしょう。

 それでも、「迷惑をかけるくらいなら死ぬ」と繰り返され、お互いに苦しいことになります。怪我や病気で身体が悪くなった場合には、症状が快方に向かえばそのような発言は減り、やがて日常には言うことはなくなります。しかし、心を病んでしまった人は、その思いに囚われて容易には抜け出せません。

 「人に迷惑をかけてはいけない」と、自分を戒める気持ちが強すぎてどのように言えば分かってもらえるのかと考えますが、どのように言っても病気の間は理解してもらうのは難しいのですよね。とにかく受け容れて「生きていて」と伝えるしかありません。

 「人に迷惑をかけない」と言いながら、実は生きている限り、誰でも何某かの迷惑を誰かに、また何かにかけないではいられません。

 迷惑だろうなと思いながら「お願いします」と頼んでみたり、良かれと思ってしたことが相手には有難迷惑だったり、喫煙者と嫌煙者の関係や、諸々もろもろ意識/無意識で迷惑をかけざるを得ません。
 また、相手によって迷惑だと感じることも違うでしょう。相手が地球だったら削ったり穴を開けられた挙句に人工物を突き刺されたり、せっかく水を浄化しても人間は汚して返してくるし、二酸化炭素や排気ガスやで大気は汚れる上に地球温暖化なんてことにもなっています。一生懸命になればなるほど、迷惑をかけることも増えたり、気づかなくなったりもするでしょう。

 それでもよほど「迷惑をかけられた!」ということでもなければ私たちは折り合いをつけて生きていきますし、地球は許してくれるのです。



 そう考えていると

「人に迷惑をかけてはいけません」と同時に「許してくれる存在があることを忘れずに感謝して、いつか誰かに恩返しをしましょうね」

 そんなことも伝えていくことが必要な時代なのかな、と思ったりもする今日この頃です。

2012年3月5日
理事
田光 江実子


自己紹介

 はじめまして。

 埼玉県の白岩と申します。
 10年近く、本協会理事の松本美佳先生のもと、「チャイルドケア」を学ばせていただいています。松本先生の、家庭教育支援協会でのご活動を伺い、「家庭教育」に興味をもち会員となりました。

 「チャイルドケア」の学びの中で、「家庭」のありかたについてあらためて考え、振り返る機会が多くありました。
 自分の育ってきた「家庭」、夫の育ってきた「家庭」、そして現在進行形の「家庭」、それぞれに別の個性があり、それぞれ居心地の良い場所です。

「居心地の良い場所」

というのが、家庭のひとつのキーワードだと思います。

 反抗期の子供たちも家族に反抗しつつも、安心できるのか、家が好き、と言います。
 自分たちの育っていく中での良い思いや、思い出と、経験を受け継いでいってくれることを子育てに期待しているところです。
 親子で、家庭の中の経験を増やすこと。心がけていることです。
 五感で触れ、思い出に残る季節の食卓、行事、遊び・・・、家庭の文化だと思います。

 今、私は、主婦・母として、アロマコーディネーター・チャイルドケアコーディネーターとして経験と学びの中からできることを、仲間同士での親子イベントの企画や、地元行政のイベントへの出展を通して提案し始めています。
 活動を通して知ること、感じることは、核家族化で伝承者も引き継ぐ側も安定した家庭の経験が少なく、理想の「家庭」が想像の中で一人歩きし始めているのではないか、ということです。

 「家庭教育支援協会」という器が家庭の文化を伝えていく「大きな家庭」であると感じ、安心できる家庭を増やす担い手として、今後、先生方のご活動や講演・講座などにも参加させていただき、自分自身の経験を深めていきたいと思っております。

2012年2月27日
日本アロマコーディネーター協会アロマコーディネーター
チャイルドケアコーディネーター
白岩 暖美


「作る人」と「食べる人」の顔がわかる料理

 現在、私はある食品メーカーで自社製品を使った新しいメニュー開発や、飲食関係者向けの料理を展示する仕事をしています。
 そのため、会社ではデスクワークよりキッチンで料理をする時間のほうが圧倒的に長い毎日です。

 そんな私を見て、「仕事で料理をしていると、家で料理なんてしたくないでしょう?」と聞かれることがあります。でも、答えは決まって「NO!」。
 もちろん、平日は帰宅が遅いので、家で料理をするのはどうしても休日が中心になってしまいますが、休みだからといって、料理をしたくない、台所に立ちたくない、と思ったことはほとんどありません。
 会社で作る料理もやりがいがあって好きですが、それ以上に家での料理は気持ちのいいものですし、仕事での料理と家での料理は全く違うのです。

 その「違い」とは何なのか?

 はじめは緊張感があるかないかの差だと考えていました。
 仕事での料理は、(十分のびのびと創作させてもらっていますが)責任を伴うので、大きな失敗をしないか、求められているものに沿っているか、といったことを意識しますが、家での料理は、そうした張りつめた感覚は当然ありません。
 しかし、最近では緊張感の差だけでなく、もっと明確な「違い」があることに気づきました。


 それは
「食べてくれる人の顔」が見えるか見えないかによって、料理をする時のこころの入れ方が変わってくる
ということです。


 残念ながら、仕事では誰かに食べてもらうための料理はほとんどありません。ですから、料理をしている時に特定の人の顔を思い浮かべることがないのです。そうすると、味より見栄えにこだわりがちで、どんなにいい食材を使っていても、その食材が生かされていない気がして、申し訳なく思うことがあります。
 それに対して、家での料理は、自分も含めて食べてくれる人がいます。そして、食べる人が美味しいな〜、嬉しいな〜と笑顔になっていく姿を想像しながら作ります。すると、料理がもっと楽しくなるばかりか、じわじわと優しい気持ちが生まれて、使う食材にも感謝しながら真摯に向き合えます。だから、家での料理は私にとって貴重な時間なのです。


 近頃スーパーなどで「○○さんが作った大根」、「○○さんが育てた牛」といった、作り手の顔を写真入りで載せた商品をよく見かけます。
 生産者(作り手)の顔を明確にすることで、消費者に安全や安心をアピールできるからです。

 食事もそれと同じで、作った人の顔の見えない食事は、その時はおいしく感じても、余韻に浸るほどの感動はありませんが、作った人の顔がわかる食事は、安らぎや温かみがあって、その時の感覚や記憶はずっと残ります。
 そしてまた、作る人にとっても、食べる人の顔がはっきりとわかると、より一層こころを込めて料理をすることができます。特に、身近な家族や友人のために作る時はなおさらその気持ちが強くなるのではないでしょうか。
 作る人のこころが込められた料理を食べると、食べた人にもそのこころが伝わると信じています。さらに、そうした食事を家庭で繰り返すことで、家庭の「和」も育まれていくのだとも感じています。


 あなたの日々の食卓の中に、作る人がわかる料理、食べる人のわかる料理はいくつ並んでいますか?

2012年2月20日
理事
家庭教育アドバイザー
フードコーディネーター
食育アドバイザー
丸山 美輪子


いのちは続く

 3月に長男が結婚します。年が明けて何やら準備にあわただしくなってきました。私も親として初めての経験です。自分の時はどうだったかしらと思い出そうとしましたが、さっぱり覚えていないのです。二人に何かアドバイスをなどとても言えません。けれど二人は式場からその段取りまで係の方と相談しながら進めている様です。だから私があれこれ心配する必要もなさそうです。

 さて、私には一人暮らしをしている母がおります。御歳九十歳。この頃日に日に認知は進み、長姉と二人でしょっちゅう様子を見に行かなければなりません。午前中の出来事は午後ななると昨日の出来事になり、今日が何月何日なのかわからないのでカレンダーは意味を成しません。その見事な忘れっぷりに二人とも呆気に取られ、思わず笑ってしまうほどです。けれど本人もそれは自覚していて「どうしてこんなに忘れるのか時々悲しくなるの」と言われるとこちらも切なくなります。けれどその悲しさもまたすぐ忘れてしまうのです。

 私はちょうどこの二人の間にいます。あたり前の事ですね。でもこのごくあたり前の事が、あたり前だからこそ、この頃何かとても愛おしい気持ちになります。親と子、子が親になり、それが繰り返されていく。

 両親にもらった私のいのち、それが息子へつながり、やがて息子たちにも新しいいのちが授かる事でしょう。キラキラと光る宝石みたいなとても大切なもの。考えると心が温かくなります。

 いのちがつながっていく事。その中に当事者として自分たちが存在する事。感謝したくなります。

 そう考えて、母との残り少ない時間をできるだけ穏やかに共有しつつ、なおかつ将来の自分をシュミレーションしてボケないように頭の訓練をしようと思っています。

2012年2月13 日
 理事
家庭教育アドバイザー
攝待 逸子