家庭教育支援協会
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ひとりの私とすべての他者とともに

「お話しいただいた内容は正確な対応のため録音させていただきます」

 

このセリフ、どこかで聞いたことありませんか。

電話から流れてくるあれです。お風呂のリモコンが壊れたとき、パソコンの設定方法がわからないとき、私はすぐ、電話で問い合わせをします。「もしもし、あのー、すみませーん」。人が出てくると思ってかけたのに、「用件に従って番号を押してください」と機械に言われます。「えー」と思いながら仕方なく操作するのですが、自分がどこに進めばいいのかわからなくて、最初からやり直したり、何度も間違えたりしながら、疲れ果て途方に暮れて、「その他のご用件」のボタンに導かれ、朦朧とした意識のなかで番号を押すのです。そうすると、前述した「お話しいただいた内容は正確な対応のため録音させていただきます」の声が流れてきて、ようやく人に巡り合うことができます。

 

これってサービス?私はいつも思ってしまいます。(この原稿を書いているとき、子どもが通りかかったので聞いたら、機械のほうが正確で早いから不満ないと言われてしまいました。でも、私は不満です。)

 

目的を明確にし、先鋭化した者だけが生き残ることができるデジタル社会の象徴のような気がしてならないのです。というのも、答えを間違えると次に進むことはできません。その都度、迷わず選択し、関係のないものを捨象していかなければなりません。つまり、面倒な他者(その他の選択肢)を気にかけていては、目的に到達することは覚束ないのです。このような現実は、ネット社会の構造によく似ています。ひたすら自分の興味のある情報だけを追いかけ、追いかければ追いかけるほど、先取りした情報が、画面上に現れ、さらに興味を深堀する構造に。そこには、他者はいません。ひたすら、自分の「快」だけを追い求める世界です。

数年前、世田谷区で、子どもたちにどんな大人になってほしいですかというアンケート調査をしたことがあります。

 

そこでは圧倒的に、「人の痛みのわかる人」になってほしいと願う親が多かったのです。

 

振り返って、いまの私たちの視野の中に他者がどれほど映り込んでいるでしょうか。電車に乗れば、いまではもう珍しい光景ではなくなりましたが、みんなうつむいて、スマホの画面に没頭しています。街を歩けば、ポケモンGOに熱中して、ぶつかるのも構わず歩いています。

こうした光景に遭遇すると、現代起きている多くの問題は、他者を意識しないことから説明できることがほとんどのような気がします。ネット社会は、人々を分断し、「私」の周りにいる他者への想像力が育ちにくい社会なのかもしれません。親の願いは、「人の痛みのわかる人」に、であるにもかかわらず。

「人の痛み」を本当の意味で理解することは、できないことかもしれません。

「あなたに私の痛みなどわかるはずがない」。

そうかもしれません。でも、だからこそ、他者を思いやることのできる人になってほしい、親はそう思うのでしょう。思いやりの心は、想像の翼に支えられていると私は思います。その想像力は、常に目的に向かうことだけによって培われるのではなく、目的にかかわりのない領域、たとえば開いた窓から外を見るような漫然と世の中を見渡す目から生成してくるものではないでしょうか。

 

 あなたは、このごろ何もしないでぼーっと窓から外を見たことありますか。

 

2016年11月21日

家庭教育支援協会理事長、日本家庭教育学会常任理事、家庭教育アドバイザー、

家庭教育師、筑波大学大学院博士課程在籍

二川早苗


違いについて考えられる子どもに育てる家庭教育

家庭教育や子どもの発達に興味を持ち始めてから多くの月日が流れ、自分自身も親となり、子育てをしながらつくづく実感していることがいくつかある。

 

その一つは、巷やインターネット上には本当に多種多様の子育て情報が錯綜的に存在ししているということである。特にネット上の書き込みや、企業の作る情報サイト等は感覚的な経験知を元に書かれていたり、自社の製品に有利なように誘導するような情報があったりと、価値観が固まっていなくて藁をもすがる思いで情報を探しに入った親たちに対しては正に迷宮入りの招待状の様なものではないだろうかと思わされる。

 

だからこそ親が考えを整理して、まず自分の子育てに重要視したい軸を定めてから様々な情報を参考にしていこうと思うのであるが、子どもに基本を教えていこうとすると、その場合の基本とは何かという疑問も俄かに沸いてくる。

 

特に、様々な考え方や文化、人種が入り混じるような環境にいると顕著に現れてくる疑問である。またそれは、文化の違いによる基本的生活習慣や礼儀作法の違いをどのように子どもに教えていくかという課題にもなる。

 

一定の文化圏の中で他の文化との違いを学ぶ時は、学校授業のように学ぶことができる。しかし、様々な文化が寄り集まる環境にいたり、相互の文化に深い関連があったりする場合、子どもは、どの尺度で捉えたら良いのか自信が持てずに混乱の連続になるか、曖昧に事をやり過ごしてその場に合わせていくことになる可能性が高くなるだろう。

 

私の様に海外で子育てをする者にとっては、親自身も今一度考え直さなければならない価値観構築の節目の様なものが到来するのである。これが最近、私がいろいろ実感することのもう一つである。

 

基本的なことをしつけようと思って挨拶の習慣について考えてみても、例えば、ここ韓国と日本のそれは同じように見えても挨拶を重要視するタイミングや意味が若干異なっている場合がある。

また、列や並ぶ順序を守ろうと言っても“お年寄りは優先”という慣例から、割り込みされても若者は文句を言いづらい暗黙の了解があったりと一辺倒の考え方では理解ができない事がある。

 

前者であれば、まず「こんにちは」とは「アンニョンハセヨ」だと訳されるが、実際は同じく用いれる時もあれば、そうでない時もある。日本では朝であれば、起きて家の中で家族に会った時に「お早うございます」等と挨拶するでしょうが、そういった場合に韓国では「アンニョンハセヨ」よりも、(目上の人に言うのであれば)「チャル チュムショッソヨ?」(ゆっくりお休みになりましたか)等と声を掛けたりする方が馴染む。この時に「アンニョンハセヨ」を使うと若干距離感が生まれるとでも言ったらいいだろうか。もちろん、言語を習得させる際にはただ置き換えた訳を教えたりはしないであろう。しかし、その違いをただ感覚的に教えるのではなく、子どもに分かりやすく背景を説明して理解を深めることが必要になってくるであろう。

 

また別の例もあげてみる。韓国でご飯を食べる時は、基本的には器を手に持って食べない。器を持って食べるというのは、身分の低い者が肩身狭そうに食べていた雰囲気になるのでという理由がある。また、片膝を立てて食べるのも本来の正式な姿勢である。これは特に女性が韓服を着たときに綺麗に広がり、優雅に見える姿勢だったところからきているが、この両方を日本でやると非常に行儀悪く躾のなっていない典型例の様になってしまう。

 

例を挙げればきりがないが、片方では“良いこと”“こうであるべきこと”が、もう片方では“悪いこと”“そうあってはならないこと”となるのである。このように基本的な生活習慣や社会道徳を教える場合にも、根ざした文化によって違うということを上手く教えていかなければならなくなってくるのだ。

 

周知のとおり“正しいこと”とは文化や環境の影響を大いに受け、見方によっても変化するものである。大人でもマイケル・サンデル著「これからの正義の話をしよう」が流行ったように難しくナイーヴな課題なのである。

特に社会のグローバル化が進んでいく中で、子どもにどういった視点を身につけさせ、違いを知り、考える能力や受け入れる能力を身につけさせるかはとても重要なのである。

 

変化の速度が速く、多様な価値観を持つ人間がコミュニティの要素となる場合には、その力を身につけさせること自体が家庭教育に強く求められると言っても過言ではないかもしれない。

 

「こうすべきだ」と教えれば、間違えれば「そうでないものは間違っている」という図式になりかねない。「我が家ではこのようにするのが良いと考えているの」とか「場所によって理由があってこの方法を選んでいるの」など多少難しくても理由や背景を伝えながら教えていく必要が出てくるのではないだろうか。別のところに行って違う習慣に出会ったときには、なぜ違うのか、その場合はどちらを選ぶのが良いのか等を共に考えながら選んでいく訓練をしていかなければならない。

要するに、家庭にてそのような会話をしながら思考の訓練していくことが子どもにとって大きな助けになるのではないだろうかと思う訳である。

 

また、「違い」と拒否感を結びつけて排除しようとする習慣を身に着けてしまわないように「違い」はなぜ起こるのか、「違い」を生むのは何なのか、そこに葛藤が生じるならばどうすれば調整する道が見出せるのかを共に考える雰囲気を家庭内に作っていく必要があるであろう。そのように考える力をつけられる様に手助けをしていくことが、これからの社会で生き抜いていく力を養うのに、実はとても重要なのではないだろうかと感じる今日この頃である。

2016928

韓国在住 主婦

藤井 美幸


我が町の恥ずかしい現状

今日は私の住む地区での話をしよう。

情景を浮かべながら、読んでもらえると幸いである。

 

東急田園都市線で渋谷まで約40分、小田急線で新宿まで約50分と都心まで1時間で行けてしまうベットタウンである。ここは今、小・中学校は教室不足でプレハブ校舎が建設されている。少子高齢化ではないが、高齢化が進んでいないわけではない。単純に人口が増えていて「多子高齢化」という現象が起きているのだ。

 

では、近隣の公園の様子を覗いてみる。

公園は”開店休業”状態。時折、ブランコや滑り台で遊ぶ子、砂場で保護者の下、砂遊びを楽しむ幼児の姿は見かけるものの、小学生が公園でボール遊びをしていない。なぜだろうか。

公園の周囲には最近、できたばかりの真新しい戸建、「新築分譲住宅」が立ち並ぶ。公園ではボール禁止!なのだ。昔は畑や雑木林、栗林だったこの地域はここ数年、建築ラッシュが止まらない。政府の相続税対象額引き下げ政策もあってか、地主が土地を手放し、どんどん土地は売られ、住宅へと様変わりした。いや、現在進行形。まだまだ建築ラッシュの勢いは止まらない。

公園でボール遊びすると、民家にボールが入る。庭らしい庭もない民家ばかり。窓ガラスにボールが当たり、割れたり、また車にでもぶつけてしまったら、一大事だ。公園のそばに家ができたのに、そんな理屈は通らない。公園でボール遊びは禁止なのだ。ならば、校庭でと思うが、その校庭もプレハブ校舎で狭くなっている。運動会では保護者の観戦では立見席の区域ができるほど。午前7時の開門の頃には長蛇の列だ。近くのコンビニは喫煙所も兼ねている有様。午前7時に長蛇の列・・・おいおい、子どもは何時の登校だぃ?

放課後の校庭も学校側は放課後広場というルールを設定。その放課後広場に登録していないと利用できない仕組みのようだ。ほらっ、子どもが学校から帰って来ていないとかのトラブルもあるし、あと、1200人も児童がいるから、安全に公平に利用できるために。つまり、校庭も気軽に遊びへ行ける場所ではないのだ。もし、野球やサッカーをしたら、放送で注意される有様だ。

では、放課後、子どもたちはどうしているか。民間学童も多いので、放課後は学童で過ごしている子が多いようだ。学童で宿題をしてくる。学童の仲間と遊んで過ごす。学童の遠足、運動会もあるようだ。放課後の学校である。学童の次は学習塾へと行き場所を移り変える。長らく続く不景気の事情もあるが、政府が進める女性が働く社会作りも手伝ってパート環境が充実しているのだ。自転車圏内に幾つもパート勤めできる環境がある。パートで稼いだ収入は学童の費用や習い事へ消えているそうだ。ちなみに学童からの帰りは車でお迎えなんていうケースも珍しくなかったり。なんか、おかしくないか。

 

さぁ、6月。今年も自治会対抗のドッジボール大会の季節がやってきた。児童数も増加しているということは、チーム数も増え、万々歳と言いたいところだが、実は違う。土日は少年野球、少年サッカー、ラグビー、テニス、プール、新体操・・・まぁ、種類もたくさんあって忙しいこと。私が小学生の頃は野球とサッカーしかなかったような…。「もし、予定が空いていたら、参加します。」だって。確かに何を習おうが、習わせようが、自由だ。しかし、優先順位が地域のスポーツ行事は下というわけで。少年野球は地域行事に参加するなど冠婚葬祭以外で休んだら、レギュラー背番号剥奪なんていう厳しい方針だったり。それって、パワハラじゃないか?

そんな逆風の中でも、さすが、人口急増地域。過去最高の参加者数と本部発表があった。

 

毎週土日の午前2時間はドッジボールの練習という生活が始まる6月。

土曜の練習を終え、時代変われど、子どもの変わらぬ姿に救われ、日常の違和感は飛んでいった。翌日曜日。吹っ飛んだ違和感はブーメランのようにして戻ってきた。

子どもたちの体が重そう。筋肉痛なのか。基礎体力の低下に気づかされた。悲しいくらい。

そりゃ、無理もない。平日、公園でボール遊びもままならず、学童へ行ったり、習い事へ行ったり、子ども同士が約束して子ども同士が自由に遊ぶという習慣がないのだから。

パートへ出ているため、親のいない家へ帰宅し、親が帰宅するまで自宅待機したり、習い事へ出かけたり、親離れしていると言えば、そうなのかもしれない。仕事から帰宅した疲れた親は手料理を食卓へ並べることはできているのだろうか。スーパーの惣菜の充実度は侮れない。でも栄養バランスに不安は抱く。

そんな生活をしていて基礎体力が養われるはずがない。

低学年までは体も小さいし、行動範囲も狭いから、気づきづらいかもしれない。でも、高学年になり、交友関係が広くなり、「うちの子、体力ないなぁ〜」なんて気づいてからでは手遅れである。高校生、大学生になっても、高熱が出るという話をよく耳にする。基礎体力がないのだ。

栄養素は高いものばかり食べているから、背はそれなりにある。でも筋肉はない。細い。所謂、キャシャというものか。

そのドッジボール大会の反省会でのこと。

「高学年の女子がスマホをいじっていた。」

確かにいた。飽きる子どもにiPadを宛がう親もいたなぁ〜。数年前の自分なら、そのときに注意していたかも。でも、高学年(とはいえ小学生)にスマホを持たせる親に疑問を感じるし、スマホを持たせても地域行事へ行くのに持ち歩くことを認めている親へ憤りを感じる。子どもに罪はないんじゃないか。

いつの時代も子どもは親の背中をみて育っている。選挙に行かない親の子は選挙に行かない。タバコを吸う家庭の子どもはタバコを吸ってみたくなる。環境が人を育てる。子どもは好奇心の塊。当たり前のことだ。言うまでもない。

教育は学校教育、家庭教育、そして地域教育。この3つから成り立つ。

幸い、学校教育と地域教育はこの地区は基盤がしっかりしていると思う。私はこの地域しか知らないので、しっかりしていると信じたいというほうが正しい言い方かもしれない。問題は家庭教育だ。

子どもの躾は親の役目。でも親の躾は・・・。その親の役目?

地域で親も巻き込んで狂った感覚を正常化に寄せていかなければならないか。

 

以上が私の住む地区、我が町の恥ずかしい現状だ。でもこれは私は現代のこの国の縮図でもあると思う。だから、恥を千も万も承知で書き綴ることにした。同じことが起きている地域もあるだろうし、逆に子どもと遊びたくても子どもがいない地域もあると思う。

今、わが国はいろいろな問題が起きていて教育的に健全な状態ではないと思っている。

 

2016726

家庭教育師

疋田 也寸彦


親として子どもとして

先日まで実家の父が体調優れず、入院生活を送っておりました。
今まで倒れたことのない父にとっては人生初の出来事となり、とても気落ちしているのが目に見えてわかりました。
ベッドの上の父の手は、私の知っているじゃがいものようなゴツゴツとした記憶の手とは違い、白くてつやつやとして、その手をゆっくりさすり、包む、温める。小さくなった背中をなでていると、会話がなくても穏やかに寄り添うだけで親子の特別な時間を感じられました。
父の手を触ったり背中に触れたりしたのはいつ以来だったのだろう。
大きく私を見守り続けてくれた身体が今ではとても可愛らしく思えてくると同時に感謝の気持が溢れてきました。今まで私たちを育てて見守ってきてくれたことを今度は私たちが親へ返していくときなのだと。
そんな体調を崩していても父が心配するのは私たちのことばかり。
父の夕飯まで付き添う私の帰り際に「暗くなってきたから気をつけて帰るんだぞ。ひとりで帰れるのか?自分の家の夕飯の支度は大丈夫なのか。」と、もういい歳の私に声をかけてくれるのです。少し恥ずかしいような、けれども一瞬にして私自身が子どもに戻れる瞬間でもありました。
親はいくつになっても子どものことを想ってくれるもの。そして子どもはいくつになっても親の子なのでしょう。言葉のふれあい、手のふれあい、心のふれあいを今回のことで改めて感じ私自身が感じとったことをわが子に生活の中で伝えていくことが家庭教育の大切さだと学びました。
自分の家庭に帰ると母親。実家に帰ると子ども。私はまだまだどちらも楽しみたいと思います。


平成28年6月27日
日本アロマコーディネーター協会
チャイルドケアインストラクター
野澤 智恵子

 


家庭の変化の予兆

「恋愛しない若者たち 〜コンビニ化する性、コスパ化する結婚」(牛窪 恵著)を読んで、これから起こるであろう日本の社会の変化、家庭の変化の方向性をうかがい知ることができた。
 我々の世代にとって恋愛と結婚は一体であるとの考えが多く、出会った異性に甘酸っぱい恋をして、恋を成就して結婚し子どもを育てるという、生命保険会社や、引っ越し業者のCMのような家庭を築きあげることが理想である。日本の高度成長期を体験し、給料が経験とともに増えていく未来を描けた我々は将来家族を養っていけるだろうから、理想のパートナーを見つけて幸せな家庭を築こうと思った。しかしこれは私のような男から見た恋愛結婚観であり、今の若者を中心に違う考えを持つ人が大勢いるのではないか。そんなことを思い知らされた。
 
 パブル崩壊を機に、社会が大きく変化し、それまでの社会観、家族観が全く変化してきている。日本社会も日本経済も成長を止めたことから、将来の給料や経済力が今よりもよくなるとは思えない。そんななかでも生きていくためには、他者の経済的な支えが必要になる。そこで、多くの人が家庭を大切にするようになった。特に若者は、日本の社会や、日本の大人に対する不信感から母親に寄り添うようになり、母親に取り入ることで生活を安定させたいと思っている。しかし、父親はそうはいかない、母親だけである。家庭の中心に女が居る、そんな平安貴族のような家庭感が戻ってきている。男の子も女の子も母親とデートする。彼氏や彼女とのデートよりも母親とのデートの方が楽しいという。母親はこれを喜んでいるかもしれないが、気をつけたほうがいい。
 
 若者たちにとって恋愛はリスクである。告白しても振られて傷つくかもしれないリスク、付き合うのにお金がかかるリスク、セックスで子供ができるリスク、別れた相手がストーカーになるリスク、リベンジポルノのリスクなど、恋愛には様々なリスクがつきまとう。そんなリスクを負うくらいなら恋愛はしたくないという若者が多いというが、私は恋は素敵なものだから是非しなさいと言ってあげたい。恋愛はしないものの、若者の7人に1人には複数のセックスフレンドがいる。その相手は母親の好みには合わないと考えているので、母親に紹介しないし結婚しようとは思っていない。そのことを相手にも伝えているが、相手も気に留めていない。
 しかし彼らには結婚願望があり、その理由は母親が望むからである。母親を安心させたい、母親が望むように結婚したいと思っている。しかし彼らの考える結婚は我々とは違う。財布は別々で、相手の収入は知らないが、共同生活を成り立たせるための生活費はお互いが折半して負担している。それは、男の中にまだパートナーよりも収入が少ない事をコンプレックスに思う人がいて、それをお互いが知ることがリスクになるからである。一人の時間を大切にし、冷蔵庫の中までお互いの陣地を守っている。財布を一緒にしないので、別れる時のリスクが少ない。そして、子供を作ることもリスクである。そして、最も重要なのは結婚によって、自分の生活や老後の資金計画が狂うこと、あるいはパートナーとの生活で自分の老後の資金計画が安定することで、結婚はコストパフォーマンスであると考えていることである。
 
 私は、結婚がコストパフォーマンスであると考える若者たちに違和感を持ったが、実は我々の世代も一緒であった。親しい友人の女性は新婚当初からDVを受けており、老後はご主人と一緒に住むつもりはないし、10数年間生活するだけの蓄えがあることを教えてくれた。別の女性はご主人と離婚して、慰謝料を請求しなかったが、子供がご主人の遺産を相続するから今焦ることはないと言っている。守るべき資産も家もがない我々のような家庭には、自分がこの先どのように生きていくかが重要になる。
 そして、将来は、複数の男女の共同生活のような結婚の姿もあり得るのではないだろうかと、著者は言う。狩猟民族のように(もっと言えば、猿のように)、複数の男女がコロニーを形成し、あるものは外へ金を稼ぎに行き、あるものは小さい子供の面倒を見るような。
 現在の家庭のあり方は、平安時代後期の武士の台頭から始まり、男が家を継ぎ資産を守り、そのために人が犠牲になるという男尊女卑の家族観である。これからは、平安時代以前のように、男女が対等で個人個人が緩く結びつく家庭観に変わっていくだろう。
 
 そんな社会に我々は何ができるのだろうか、伝統的家庭観から、新しい家庭観に移行した時に親子の関係、家庭と社会との関係が大きく変化することは間違いがない。個人化が進み、リスクを重視した人間関係が進む中、家庭教育にできることは何だろうか。
その時に教えなければならないのは、「人間とは何か」であると思う。家庭でも、教育の場でも人間とは何かを考えさせること、伝えることで日本社会の分化、不安定化を防ぐことができると考えられる。宗教観が育たない日本で、人が生きるためのの基準はどのように築かれるのか?
 
 今こそ、哲学復興の時代ではないだろうか。
2016年5月31日

平林直人